その昔、南九州には熊襲族や隼人族が居住していたと言われています。筆者も子どもの頃からそのような話を耳にしてきました(学校で習ったのか、それとも地元特有の話として聞いたのか、詳細は曖昧です)。当時は「地元を持ち上げるための忖度話だろう」と思っていましたが、実際にはそれ以上の背景があるようです。
鹿児島県霧島市隼人町には、関連する遺跡や資料館も存在します。これらを基に、大隅国と熊襲族、隼人族についてまとめてみたいと思います。
大隅国
大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つです。現在の鹿児島県大隅半島や屋久島、種子島、奄美大島などを含む地域に相当します。
大隅国の成立と歴史
大隅国は和銅6年(713年)、日向国から分立して成立しました。古代において、この地域は大和朝廷の支配に対して抵抗を続けた場所として知られています。特に隼人と呼ばれる人々は、大和王権に反乱を起こすなど、強い独自性を持っていましたが、次第に中央政府の支配下に組み込まれていきました。
明治時代には鹿児島県に編入され、国名としての「大隅」は使われなくなりましたが、現在も「大隅半島」など地名としてその名が残っています。
熊襲族
熊襲族(くまそぞく)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する民族で、神武天皇の時代から大和王権に抵抗してきたとされています。その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)によって平定されたと伝えられています。「熊のように勇猛な人々」として描かれ、特に霧島市隼人町にある「熊襲の穴」は、彼らの首領が住んでいたとされる場所として有名です。
熊襲の穴
熊襲の穴は、熊襲族の首領である川上梟帥(かわかみたける)が住んでいたと伝えられる洞窟です。伝説によれば、女装した日本武尊が川上梟帥を討ち取った場所とされています。この洞窟は歴史的にも神秘的なスポットであり、地元では重要な史跡として知られています。
隼人族
隼人族(はやとぞく)は、南九州の阿多・大隅地域に居住していたとされる民族です。平安時代初期の文献にも登場し、彼らは大和王権に対して独自の文化を守りつつ反抗的な姿勢を示しましたが、最終的には朝廷の支配下に入ります。
隼人族は武勇に優れた戦士として知られ、その文化は後に薩摩藩の文化にも影響を与えたと言われています。また、隼人司という官職を持ち、朝廷の軍事的役割を担うなど、政治的にも重要な存在でした。
隼人塚
隼人塚は、養老4年(720年)の隼人の反乱に関連しているとされる慰霊の場です。この反乱は、大和朝廷に対する隼人族の大規模な抵抗の一つで、朝廷は大軍を派遣してこれを鎮圧しました。その後、隼人塚は亡くなった隼人族の霊を鎮めるための場所として建てられたと伝えられています。現在でも地域の祭りや文化行事の中心として重要視されています。
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「大隅」という名称は、「大いなる隅(すみ)」を意味すると考えられています。この「隅」は都から遠く離れた地域を指し、南九州の端に位置することから名付けられたとされます。熊襲族や隼人族と深い関連があり、その歴史を振り返ると非常に感慨深いものがあります。
その後の歴史もおもしろそうです。
昔は歴史にあまり興味がありませんでしたが、調べてみると意外と面白いものですね。